食の多様化を見据えた挑戦と創意で進化「中興の祖」松本浩三が見通した未来
創業者の伊藤亡き後、株価の大暴落による経営危機や太平洋戦争による戦時統制の強化、企業整備令、戦災、終戦後の混乱などを乗り越えた昭和産業は、会社再建の道を模索します。
そんな中で、大きな転機となったのは1954年(昭和29年)に到来した、いわゆる「神武景気」。国内市場の回復で経済が活性化し、消費者には経済的な余裕が生まれ国民の食生活は多様化。これに伴い、パン、マカロニ、スパゲッティ、ケーキなどの小麦粉製品や洋菓子類、肉や乳製品需要が伸びていったのです。昭和産業の扱う小麦粉、ぶどう糖、水飴の販売量もそれに伴って伸び、業績は良好に。さらに、動物性たんぱく質の需要が高まったことで、国内の畜産も活性化し飼料生産も順調に伸びていきました。
松本浩三
日本の食の多様化による市場の変化は、昭和産業にとってはさらなる成長を遂げる大きなチャンスでした。その立役者となったのが、4代目取締役社長、松本浩三です。帝国銀行(現三井住友銀行)取締役、第一銀行(現みずほ銀行)監査役を歴任した松本は、数字に明るい合理主義者であるとともに、柔軟性に富んだアイデアマンでもありました。
1956年(昭和31年)1月、戦後の混乱期を率いた3代目社長の武井大助に代わり社長に就任した松本は、攻めの経営を決断し「百年の礎を築くため、いま大設備投資を断行する」という信念で舵取りを進めます。
神戸工場
日本人の食の多様化を見据えた投資と多角経営を推進した松本は、すべての工場を臨海部に集約し、生産設備やサイロを拡充。また、多品種生産のコスト課題に対応するため、原料から製粉・製油・飼料工場をつなぐ食品コンビナート建設などを行い、現在の昭和産業の礎を築きました。
創業者の伊藤と、中興の祖である松本。手法は異なりますが、2人に共通していたのは先を見据え、挑戦と創造の精神で事業を成功に導いたこと。どのような時代や状況にあっても、失敗を恐れずに変革に挑戦し続ける逞しい精神は、まさに「昭和魂」として現在も受け継がれているのです。
「天ぷら粉の昭和」のイメージを確立
昭和産業が日本の食シーンで一躍名前を知られるようになったのは、やはり「昭和天ぷら粉」のヒットがきっかけでしょう。実はこの商品、最初は1959年(昭和34年)に天ぷら油とのセットでギフト販売をしたのですが売り上げは今ひとつでした。
しかし、翌年、日本食ブームに沸く米国ロサンゼルスで「SHOWA TEMPURA BATTER MIX」として売り出して好評だったことから、1961年(昭和36年)に国内初の家庭用天ぷら専用粉として「昭和天ぷら粉」を発売。すると、今度はテレビCMや宣伝カーなど様々な販促活動の効果もあり国内でも大ヒットとなりました。
天ぷらといえば家庭料理の中でも手間のかかる「ごちそう」の一つ。当時は高価だった卵もいらず、ただ水に溶くだけで、誰でも手軽においしい天ぷらが揚げられる「昭和天ぷら粉」は、主婦の間で支持されました。
まさに、「天ぷら粉の昭和」のブランドイメージを確立する看板商品に成長したのです。